半年ぶりにココを見た

ちょっとしたきっかけでココを思い出した。半年以上放置だった。
ミキハウスの社長?が罪人堀江さんと同じように車の事故死者数と福島の原発事故の死者数を比較して「それだけの人、今回の事故で死んだ?」と言う論法で原発はそんなに危険じゃないでしょ?と言う発言を衣に橋本大阪市長を批判、維新の会を悲観していたらしい。
ある人がこんなビジネスモデルに気付き、しかも実行できるという素晴らしいデザイナー(企画者)の話。CDの売り上げ枚数を上げるのに100万人に一枚売って100万枚の販売をするのと1万枚買う人を100人作るのと販売枚数は同じだってこと。そして、100万枚も売れたのだから国民的なアイドルだー!と騒ぐ。実質は100人の支持しかないのだから当然「国民的」という表現とは大きくかけ離れているのだけれど、沢山売り上げたという「結果」から露出や認知度が増え、その結果が「国民的」知名度というさらなる「結果」をもたらした。ここに論点のすり替えはあるけれど、いわゆる人々の不幸は存在しない。
前出の社長が発した言葉は質の全く違う人々に与えられてしまった不幸を比較して論点のすり替えを行い自分が批判したい者への理由づけに利用したという点で非常に残念な感性に思う。
例えば原子力発電所のような巨大な利益を生み出す施設であろうとも正当性とその本質は「電気を生み出し事故を起こさない事を続ける」という2点の結果を達成しているかどうかであろうかと思われる。
同じ状況で事故を起こさなかった福島第二原発の所長は称えられる事はなく、事故を起こした方の所長の独断が英雄視された事はまだ記憶に残っている。同じ状況で事故を起こさなかった者がいるという事実を思うに「ボンクラ」に原発を動かさせるなという一言に尽きる。
原子力が安全か危険かと問えば危険に決まっているし、その観点からであれば車も家庭のガスコンロも危険に決まっている。それは危険性という可能性に対しての評価。
だから原発みたいに大きな危険性を持っている物はきちんとした人と組織がうごかさなきゃいけない。関電の原発がどうこう騒がれてるが「原子力は危険だとわかっていますがウチの従業員は福島第一みたいなボンクラはいませんよ、潤沢な電力はみなさんの生活を豊かにします、だから任せて下さい」とか言えばいいのにね。
で、何が言いたいかと言えばパーフェクトピッチングを達成した時のピッチャーだけじゃなくて、キャッチャーも同じように称えられたらいいのになって事です。